霊運院と徳川家の歴史

徳川将軍家と霊運院の物語

第一章:将軍家の苦悩と、月泉和尚の祈祷

霊運院の開創は、ある一人の僧侶と、徳川将軍家を襲った「危機」から始まります。 時は延享元年(1744年)、第9代将軍・徳川家重公の時代。家重公の側室であり、深く寵愛されていたお遊喜の方(後の安祥院)が懐妊されました 。この時、安産祈祷を命じられたのが、当院の開山となる月泉和尚(後の放光東明禅師)でした 。

翌年、無事に次男・万次郎(後の清水重好)が誕生しますが、ここで事件が起きます。幼君が母乳を一切飲もうとせず、困り果てていたとのことです 。手を尽くしても改善が見られない中、再び月泉和尚に祈祷の命が下りました。和尚が祈祷を捧げると、不思議なことに万次郎君はすぐに乳を飲むようになったといいます 。 この奇跡に、お遊喜の方は深く感謝し、月泉和尚に絶大な信頼を寄せるようになりました 。この評判は家重公の耳にも届き、和尚は生涯にわたり毎月護符を献上する栄誉を賜ることとなったのです

第二章:吉宗公の遺命と、田沼意次の奔走

宝暦7年(1757年)、稀代の側用人として知られる田沼意次が、家重公にある書物を提示しました 。それは、月泉和尚が再建を命じられた下総国印旛郡惣深新田にある嶺雲院に関する記録でした。 これを見た家重公は、偉大なる父・第8代将軍 徳川吉宗公の「菩提を弔い、永代にわたり国家の安泰を祈る場所」として、この寺を江戸市中へ移し、再興することを命じます 。

翌宝暦8年(1758年)、家重公を開基、月泉和尚(放光東明禅師)を開山(初代住職)として、「嶺雲院」改め「霊運院」が正式に創立されました 。 家重公の入れ込みようは並大抵のものではなく、金五千両という莫大な造営費に加え、将軍専用の建物(御成書院)の建築も命じています 。 さらに、第10代将軍となる徳川家治公の計らいにより、吉宗公が生涯信仰していた「秘仏四尊」や「不動明王像」までもが当院に託されました 。

こうして霊運院は、家康公と吉宗公の御位牌を安置し 、幕閣や大奥からも深く信仰される「特別祈願所」としての地位を確立したのです。

徳川吉宗位牌
徳川吉宗公の位牌
徳川家康位牌
徳川家康公の位牌
徳川家重位牌
徳川家重公の位牌

第三章:度重なる災禍と、移転

しかし、その歴史は苦難の連続でもありました。 開創からわずか2年後の宝暦10年(1760年)、「宝暦の大火」が江戸を襲います 。神田から広がった炎は深川に達し、完成したばかりの霊運院も焼失してしまいます 。 それでも幕府の庇護は厚く、直ちに再建資金が下され、復興を遂げました 。

時は流れ、近代に入っても試練は続きます。大正12年(1923年)の関東大震災では、猛火により本堂や貴重な古文書の多くが灰燼に帰しました 。さらに昭和20年(1945年)の東京大空襲でも甚大な被害を受けました 。 戦後には復興計画による区画整等もあり、長年親しんだ深川の地を離れざるを得なくなりました 。東村山への移転後も、詐欺被害による再度の移転など、言葉に尽くせぬ苦労がございました 。

現在、徳川家位牌、歴代住職位牌は霊運院再建までの間、住職の師寮寺(師匠の寺)千葉県野田市鏡円寺にて安置しご供養いたしております。

霊運院位牌
鏡円寺
千葉県野田市 光明山 鏡円寺

このほか数多くの歴史がございます。時間を見つけて更新致します。住職より